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月刊JGAニュース

交通の要衝、甲賀  

大原薬品工業株式会社

代表取締役専務 井用 隆弘

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 大原薬品工業は2007年聖路加タワーに東京本社を開設しました。製薬企業として病院との連携、各種情報の収集を考えると、この地に営業・情報提供機能を集約することがベストであると考えたからです。しかし現在も創業の地である滋賀県甲賀市(こうかし)に本社・プロダクトセンター、R&Dセンター、鳥居野工場、神工場、2nd Labo.があります。弊社社長の大原誠司、そして私の出身地でもある甲賀という場所について、少し紹介したいと思います。
 甲賀というと「忍者の里」をイメージされる方が多いと思いますが、一方で甲賀が古来、重要な交通の要所であったことは余り知られていません。
 まず甲賀という地名が歴史書に登場するのは、壬申の乱あたりでしょうか。天智天皇崩御後、息子である大友皇子と弟である大海人皇子(後の天武天皇)の間で争われた壬申の乱は、672年に大海人皇子が出家していた奈良吉野を出て支援勢力のあった伊勢・美濃に向かうことで始まります。同時に彼の長男である高市皇子も近江大津京を脱出し、父との合流を目指すのです。大津から草津を通り現在のJR草津線沿いに甲賀へと向かいます。水口から甲賀をぬけて柘植に出る道で「鹿深越え」と呼ばれます。甲賀と伊賀の境目にある柘植にて、高市皇子は父、大海人皇子と再会し、伊賀と伊勢を分ける加太峠を越えて脱出に成功するわけです。実は東海道(現在の国道一号線)が整備されるのはずっと後の世で、当時の交通は鹿深越え、加太峠越えが一般的だったようです。甲賀、伊賀にはその後、甲賀郡中惣や伊賀惣国一揆といった全国的にも珍しい自治組織が生まれますが、両地域が交通の要所だったことが関係しているのでしょう。
 甲賀の郡中惣は、室町時代に登場します。近江の守護である六角高頼は、応仁の乱の時期に荘園を押領して勢力を伸ばしました。乱が治まると室町幕府は押領地奪回に乗り出します。1487年、第9代将軍足利義尚は8000の軍勢を率いて京を出陣、琵琶湖西岸の坂本で細川、斯波、畠山などの軍勢と合流し合戦を始めます。幕府軍優勢の中で、高頼は本拠の観音寺城を出て甲賀郡に立てこもりました。一方、義尚は甲賀の入口である鈎(まがり)の安養寺に布陣します。この時期、義尚の父である義政は京で東山山荘、銀閣寺を作っていたのですから気楽なものです。甲賀衆(甲賀郡中惣)は、元々自治を許容していた高頼に味方します。その年の暮れに、甲賀衆が義尚の陣所に夜襲をかける「鈎の陣」が起こります。参加した甲賀衆は53家と言われ、「甲賀忍者」の元祖として現在まで伝えられています。翌年、義尚が25歳の若さで陣没した後も幕府と六角の争いは続くのですが、結局、幕府は甲賀を支配することが出来ず戦国時代へと突入します。
 続いて甲賀が“通路”として登場するのは、徳川家康の「伊賀越え」です。1582年、本能寺の変が起こります。堺にいた家康は自刃も考えるのですが本多忠勝らの説得で本領三河への帰還を決意、徳川四天王などの重臣を含め34名で逃走を始めます。現在、堺から岡崎インターまで新名神を使って行くと218キロですから、なかなかの逃避行ですね。ルートは、堺―河内尊延寺村―枚方市―宇津木越え―宇治田原―信楽(甲賀郡信楽町) ―甲賀南部―柘植―加太越え―関宿―亀山―白子浜から舟で三河と考えられます(諸説ありますが)。信楽を通ったので「甲賀越え」と言えるのですが、先導したのが伊賀出身の服部半蔵正成だったことから「伊賀越え」となったのでしょう。逃走を数百人の伊賀衆、甲賀衆が守り、後に江戸城の警護は城内を伊賀忍者、城門を甲賀忍者が守るようになったと伝わります。
 なお、旧本社(現2nd Labo.)の住所は甲賀市甲賀町大原市場、現本社は甲賀町鳥居野ですが、この大原、鳥居という名は甲賀53家に見えます。弊社社長の大原も、地侍の子孫であることは間違いないかと思います。

 

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